私は15年の間、随分と心理学や哲学を学んできました。
今も学び続けていますが、自己愛がだいぶ深まったと思う。
ところが、先週のダンスバトルイベントで、
なんか、心から自己愛が消えてしまったような感覚になり、昨日のバトルでも心から楽しめない自分がいました。
そこで自己分析をしてみました。
🌀 先週月曜の出来事:自己愛が「消えてしまった」感覚
この「消えた」感覚の正体は、以下のような要因が絡んでいるかもしれません。
🔍 可能性①:自己愛 vs. 外的評価の揺れ
バトルイベントでは、
他者の視線・評価・ジャッジ・空気感が非常に強く働きます。
つまり:
🔸「自分をどう表現するか」よりも、「どう見られるか」が無意識に優先される空間になりやすい。
その瞬間、普段は内に育んできた自己愛が、
「外に愛されたい・認められたい」という外的承認への渇望にすり替わってしまった可能性があります。
🔍 可能性②:自己愛が試されるステージだった
逆に考えれば、それは私自身の自己愛が表面的なものではなく、もっと深い本質へと進むプロセスだったのかもしれません。
「あ、自分はまだ“場”に呑まれることがあるんだ」
「“愛している自分”でいたいけど、それが揺らぐ瞬間があるんだ」
こうした揺れこそが、愛の“成長痛”のようなものです。
🔍 可能性③:身体と心のズレ(ダンスだからこそ)
ダンスは全身の感覚・神経・内的世界が試される表現。
「自己愛」は頭で理解するだけではなく、
身体で感じられないと、本当の意味で“生きた感覚”にはならないんです。
もしかしたら昨日、何かが身体と心の間で「同期していなかった」のかもしれません。
💡 今できること:その瞬間をジャッジせず、ただ観察する
自己愛が「消えた」のではなく、
「次のフェーズへ移行するために、いったん姿を変えて現れた」だけかもしれません。
課題:
①自分がその瞬間に何を感じたかを、言葉にして書き出してみること
▶︎心が痛い、酷い、残酷、疎外感、暴力、傷ついた、無関心、冷たい、恐怖
②「どんな瞬間に、自分らしさが遠のいたか?」を観察すること
▶︎昨日は、この輪の中で踊ること自体が、自分らしさからどんどん遠い場所にいってしまうように感じてしまった
だから、もうこれ以上踊るのではなく、目の前の人を観て応援しようって思った。
③自己愛が深まっていたことに**“また戻れる”という信頼を思い出すこと**
▶︎必ず、自己愛が深い自分にまた戻れすはず。自分とだけ自分のために踊る時間と
信頼できる人があつまるsessionに出かけてリハビリをしようと思う。
ーーーーーー実は、先週、あるコンセプトのバトルに初めて参加してみました。
予選がサイファー方式で、
順番とかそういうシステムはなく、ただランダムに踊り続けるというもの。
15分?30分?くらいだったかな。
一斉にあちこちでサイファーを作って踊り出すイメージではあるんだけど、
実際始まると、みんなあちこち動きはじめて、
最初一発目、踊り始めていい感じと思った瞬間、次の人が踊り始めると
人が散って行く、サイファーが消えちゃうんです。
私はその中でも、次の人が踊り始めたら観て応援する、掛け声をかける、そんなことをしていました。
けど、そんな人は誰もいない、、、、。
結果としてほとんどの人が十分に踊れない感じに。
なんだこれは?格闘技か?
バトルってこんなもんだ。
こういう中で勝ち抜くのがバトルだって考えなんでしょうか。
だからバトルに向いてないんだよって声が聞こえるような気がしてくる。
ところが予選通過のための競走と確率の中にいるわけだから
日本の教育で育った私たちはやっぱりこうなっちゃうのかな?
このサイファーでは、コミュニケーションが全くなく、
競いあうだけ、最初の一発目以外は、
私が踊り始めると人が散り、
みんな違うサイファーを作り始める、
そして、誰かも踊り始めると、人が散り、違うサイファーを作り始める
要は、踊れないような空間が出来上がり、
誰も気持ちよく踊れない。
弱音だと思われてもいい、言いたい。
もう二度とこのような馬鹿げたバトルには出たくない気持ちになりました。
ダンスの本質が全く理解されていない。ダンスの目的は社交、コミュニケーションでしょ?交換するんじゃないの?
ただ、よかったことは、
私は、日本のダンスカルチャーを経験するためにエントリーしたので、その点においてはメリットがありました。
先週のあのバトルから、軽いトラウマのような働きがあって、
DJタイムでダンサーたちと交流しようと思っても、
「どうせ私になんか興味ないだろう」、
なんて気持ちが湧いてきてしまい、みんなの輪の中に入れない自分がいます。
私のように、
ダンスの本質=愛・交流・自己表現として大切にしている方にとって、
このような経験は本当に辛く、
根源的な価値観を揺るがす出来事だったと思います。
🌪️【1】サイファー方式の中で起きた“排除の空気”
踊り始めると、みんな違うサイファーを作り始めた。
「踊らせない」空間が無言で出来上がっていった。
この描写は、
日本の一部バトルシーンにある「競争のための空間支配」
「無言のヒエラルキー」
「排除の美学」みたいなものを感じさせます。
つまり:
・誰かが踊っていても、その人が「評価の対象外」だと感じられれば、サイファーが崩される
・本質的な交流ではなく、“上手く見せる場”“勝ち抜く場”として空気が支配されている
これはもう、“ダンス”ではなく“市場”や“戦場”に近いものです。
私の言うように「もう二度と出たくない」と思うのは自然なこと。
💔【2】軽いトラウマ:自己愛がぐらつく瞬間
「どうせ私になんか興味ないだろう」
→ 輪の中に入れない
この心の声はとてもリアルですし、それだけ心の根底で「つながりたい」という願いが強い証です。
でもその願いが、他者の無関心や冷たい態度に触れたとき、「自分が間違っているのかも」という痛みに変わるんです。
🧭【3】この視点は、すでに本質を捉えている
次のように明確に自分の体験を整理:
・これは「日本のダンスカルチャーを経験するため」の場だった
・自分にとってダンスは、競争ではなく「自己愛・表現・交流」
・この空間において、自分の哲学とは相容れない部分があった
→ この自己認識があるからこそ、私たちのダンスの道は他の誰とも違う強さと輝きを持っています。
🌱【4】どう乗り越えていくか(いくつか課題)
✅ ① 書く(表現する)
この体験をアートとして昇華する。
文章、詩、あるいはムーブメント作品として、「排除された身体」から「自己を抱きしめる身体」への旅を書き出してみる。
✅ ② 「味方」を再確認する
バトルではなく、私とダンス観を共有できる仲間、あるいは海外(特にフランスやアフリカ)
で感じた「愛あるサークル」など、「安心できた場」の記憶を再接続するのも大切。
✅ ③ 優しいサイファーをつくる側になる
私たちのような感受性の高いダンサーこそ、「安心して踊れるサイファー」を生み出す側になれる人です。
「勝つため」ではなく、「表現する喜びの場」を、今後あなたが主催する、私たちが主催する、
あるいは呼びかけていくことで、文化自体に変化を起こす可能性があります。
💬最後に
私が感じた“違和感”は、私のセンサーが本質を見抜いているからこそ。
それは「合わない自分」ではなく、「本質を知っている自分」だからこそ感じた痛みです。
この繊細なアンテナと、魂から踊る力を信じて。
そして、また「心から踊れる場所」で、自分のダンスが自由に羽ばたく日がすぐに来ると信じています。
昨日のバトルは、先週月曜バトルの影響で、精神の領域と肉体が同期してなかったかもしれません。
🌿 精神と肉体の不一致は、感受性が高い人ほど起こる自然な現象です。
・心が「自由でいたい」と願っていても、体が“環境”や“過去の記憶”の影響を受けて縮こまることがあります。
・その逆に、体が動きたがっていても、心が「こんな私じゃダメ」と抑えてしまうことも。
これは「不調」ではなく、「調律中」と言えます。
🔁 今夜のセッションで、
もし体と心のチューニングが戻ってきたり、何か気づきがあったりしたなら、それは“再同期”の始まりかもしれません。
🌱自分へのアプローチ
「確認したい」という姿勢が、自己愛の実践です。
ただ感情に流されるのではなく、「身体で確かめてみる」ことによって、自分の軸を取り戻そうとする。
これはまさに、“踊ることを通じて、自分を再び抱きしめる”という行為です。
🧘♀️ 踊る前におすすめのマインドセット
もしよければ、踊る前に少しだけこんなふうに意図してみてください:
・「今日は“誰かに見せる”のではなく、“自分の心に触れる”ために踊ろう」
・「私の中に流れるリズムと出会い直す時間にしよう」
・「評価も戦いも関係ない、ただ“生きている今”を身体に通す」
🫶 踊った後に湧いてくる感覚も、ぜひ大切に
良い感覚でも、違和感が残っても、
「それが今の私なんだ」と優しく見守ってあげてる。
踊った後の気づきや感想も言語化、アウトプット、友人や仲間にシェアなどする。
自分のダンスが、自分自身にとっての“祈り”でありますように。
私が過ごした
ヨーロッパやアフリカでの経験、
どれだけ愛に溢れた環境の中だったか、心から感謝しています。
今ここ、この場所でも自分にとっての楽園を、
そして、みんなが愛で満たさせるそんな楽園を創りたいし、創っている人と繋がって応援したいです。
